新たに何かを推し始める時、いきなりその沼に落ちることはほぼ無い。少なくとも私の場合は。
何かのきっかけがあり、少しずつ探りを入れていく。
危険な沼に落ちることの無いよう、まるで沼に張った薄氷の上を、少しずつ歩いていくように。
そして、あるタイミングでその薄氷を‘’自らの手で‘’割る。
あとは自らの金力と物欲に任せ、グッズを買い漁り、妄想に心を委ねていく。
大抵はそれで済む。
少なくとも、ここ暫く私の推しは、どれほど求めようとも現実には存在し得ない、作品(アニメや漫画など)と妄想の中にのみ存在している。私はそれを受容し、沼に落ちてきた。
だが、今回は違った。
私が落ちた沼は、Vtuberグループ「ホロライブ」の一人「桃鈴ねね」だ。
きっかけはムシキング。
彼女もまた、子供の頃ムシキングを遊び、今はカブトムシやクワガタムシ(に限らず様々な生き物)を飼育している。
最初は、ホロライブのメンバーの一人にムシキング好きがいる、という程度の認識。
少し気になっている程度で、時々「ねねちのギラギラファンミーティング」なる曲を聴いていた。
しかしながら、ホロライブというのは人気Vtuberグループ故に、その姿を見る機会は決して少なくない。
刷り込みのように、少しずつ、少しずつ、気になっていく。
決定打はYouTubeに投稿されている、配信の切り抜き動画(これは公式に認められているらしい)で、彼女がカブトムシやクワガタムシについて楽しそうに語っている姿を観てしまったこと。
それにより、私はまた自らの手で薄氷を割り、沼へと落ちていったのである。
そして後はグッズを買い漁り、配信などを観て、時々コメントもして……で済む“はずだった”。
しかし私は考えていなかった、否、忘れていた。
Vtuberを推すことの危険を。
アニメや漫画のキャラクターの人格は誰が作るのか。言うまでもなく、それは作者である。
ここで敢えて“中の人”の存在を肯定して語るなら、特にアニメキャラクターの中の人である声優の人格とキャラクターの人格は、一致している必要は無い。
敢えてドライに言うならば、声優はそのキャラクターのイメージを壊さぬよう、演じてくれれば良い。
ここに、キャラクター≠中の人の図式が成立する。
では、Vtuberはどうか。
こちらは事情が異なり、人格はかなりの割合で“中の人”に依存する(無論、演じている部分も少なからずあろうが)。
キャラクター≒中の人の図式が成立してしまう。
それが、まずい。
何故なら、彼女らの宇宙に“私が存在しうる”ことに気付いてしまったからだ。
どう足掻いたって、アニメや漫画のキャラクターの宇宙に、私という人間は存在し得ない。
それを認識できているからこそ、私は今まで、熱を帯びながらもどこか客観的な視点を維持しつつ、様々なキャラクターを推すことができていた。
しかし、今回はそれが出来ていない。
僅かな時間でも良いから、彼女に認識されたい、という、極めて厄介な承認欲求が発生してしまった。
殊更厄介なのは、それを満たしたとしても、新たな承認欲求が発生するであろうことが、容易に想像できることだ。
もう一つ、今、彼女は、どうも心身の調和が取れておらず、かなり悩みの中にいるらしい。
これがアニメや漫画だったら、(作風にも依るとは言え)作者がその後の展開で解決へと導かれるだろうから、それほど心配せずに済む。
しかし、Vtuberの場合は、必ずしも良い方向へ向かうことが保証されていない。
しかし、私が手を差し伸べたところで届くことはなく、ありきたりな声援を贈るのみで、何も出来ない歯痒さを覚える。
彼女(に限らず、Vtuber)を推す、ということは、極めて人間的で現実的な彼女らの苦悩を同時に知るということであり、また、それに対して何も出来ない自分を呪うということでもある。
今、私は自分を呪っている。
頭のどこかで囁かれる、「諦めろ。お前は、王子様になど、なれないのだから」という声に耳を傾けながらも。
思えば、Vtuberを推すことの危険性は、茨ひよりの時点で薄々勘付いていたのだから、もっと慎重になるべきだった。
しかし、もう、遅い。
私は沼に“溺れている”。いつもは“浸かっている”という感覚が、今は溺れている(=自らでコントロールできない)感覚である。
今、私が願うのは、彼女が、桃鈴ねねさんが、苦悩を乗り切り、ただ楽しく活動してくれることだ。
ただ、見守り、ありきたりな声援を贈るしかできない私でも、そのくらいを願うのは、赦されると信じたい。
ー筑波嶺の 峰より落つる みなの川 こひぞつもりて 淵となりぬるー
了